礼拝メッセージ要旨
2017年12月31日(日)
テーマ「御心に留められる主」 聖書箇所:詩篇115篇12節a
2017年も終えようとしている。私達は今年一年を振り返り与えられた主の恵みをしっかり心に留め感謝したい。この詩篇は、捕囚から解放され祖国帰還を果たした民が、神殿建築に着工したとき聖歌隊に歌わせたものと言われている。
1.望むところをすべて行われる主(13節)
ⅰ.神の偉大さとあわれみ。
神の偉大さはクロス王によって民を捕囚から解放された事に現わされている。主のあわれみは、反逆を重ね堕落した民も捨てず滅ぼさず、残りの民を回復された事に現わされている。主のあわれみはやがてメシアの降誕へと繋がっていく(ルカ1:54、78)。
ⅱ.神が民に働かれる所。
「すべての淵で」(詩篇135:6)とある。容易に抜け出られない苦しい境遇である。しかし、そのような苦境こそ私達を造り変えられる神の作業場であることを認め、自分を主の手に委ねよう。主の栄光現わす器と変えられることを信じて。
2.御心に留められる主(12、13節)
主は塵に過ぎない私達を御心に留められる(原語ザーカル)御方である。
ⅰ.ハンナの場合(Ⅰサムエル1:19、20)。
主は卑しめられた彼女を心に留められたのである。サムエルが与えられ、子を産めない女性としての汚名をすすいでくださったばかりか、彼女に誉れを与えられた。
ⅱ.彼女は祝福された(Ⅰサムエル2:21)。
彼女は祈る女性として、清い信仰の女性として、イエスの母マリヤの型と言われている。私達を御心に留め、必ず祝福へと変えて下さる主に信頼し一年を締め括ろう。 (川瀬協力牧師)
2017年12月24日(日)
テーマ「イエス・キリストと東方の博士たち」 聖書箇所:マタイの福音書2章1~12節
この章では、ヘロデ王に追われるヨセフとマリア、イエスの姿と、異邦人の東方の博士たちがイエスを慕い、礼拝する姿の二面性がある。
1.イエスから近い者、遠い者
この東方の博士たちとは、バビロニヤの天文学者、占星術師たちのことと考えられる。彼らは超自然的な星に導かれた。ユダヤ的視点から、この星はシャカイナ・グローリー「神の栄光の光」である。博士たちはイエスに期待感と尊敬をもって近づいていった。イエスに近い者の姿である。一方、ヘロデ王、祭司長、学者たちはイエスに対して敵意を持っていた。イエスからは遠い者の姿である。私たちはイエスの誕生を祝う時、イエスに近づき礼拝する者でありたい。
2.イエス・キリストへの最初の異邦人の礼拝
博士たちの贈り物、黄金は王としての身分、乳香は神性、没薬は死を象徴する。真の礼拝とは、犠牲を払ってでも惜しまないもの、それだけに値するものだ。この礼拝は、異邦人がメシアにささげた最初の礼拝となった。ここに霊的象徴がある。一つは、キリストはまずユダヤ人のマリヤとヨセフに出会い、次に異邦人の博士たちに出会ったこと。福音もユダヤ人から異邦人に伝わっている。もう一つは、キリストは羊飼いなど貧しい人たちに示され、それから裕福な人たちに示された。どのような人であれ、熱心に神を求めるならば、神によって見いだされるのだ。
3.イエスのへり下りと私たちへの祝福
イエスは馬小屋にお生まれになった。それは、私たちの弱さ、社会の底辺で苦しみもがく人々の救いのために来られたことをあらわす。ベツレヘムは失敗者のような町であったが、名前には「実り」と「将来」の意味・象徴があった。人の目には小さくても、神の目には素晴らしい可能性がある。イエスは常に「仕える者」の姿をとられた。そしてイエスの最後は十字架である。このイエス・キリストを自分の救い主として受け入れる時に、実に豊かな世界を内側に持つことができる。ヘロデ王のように遠い者ではなく、博士たちのようにイエスに近づき、最高のものをささげる思いをもって、イエスの誕生をともに祝おう。 (山本牧師)
2017年12月17日(日)
テーマ「永遠の昔からの定め」 聖書箇所:ミカ書5章2節
1.使命に生きる預言者ミカ
聖書の中には、多くの使命を持った人々が描かれている。キリストの誕生の時、羊飼いたちもキリスト誕生を物語る人々となった。彼らも神によって使命に生かされた。
私たちの人生の目的は何であろうか。人生は成功する時もあれば、失敗する時もある。真の目的は、私たちが置かれたところで使命を受け、神の御心を受け止めて生きることではないだろうか。ミカも預言者として、その務めを行なったのだ。
2.神のために
小さな町ベツレヘムからイスラエルの支配者、イエス・キリストが出ることは、神のためであった。私たちは「救われたことは私たちのため」と考える。現に「きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」とある。しかし神は同時に、キリストが生まれることは神のためだという。その行きつくところは、キリストが生まれ、そのキリストによって救われる「私たちの存在」が「神のためである」ということではないか。キリストを通して私たちを救うこと、私たちを慕い、愛することが神ご自身のためであり、神の喜びであられる。
3.永遠の昔からの定め
キリストがベツレヘム・エフラテでお生まれになることは、永遠の昔からであった。ここでは、「昔」ということばが非常に強調されている箇所だ。はるか昔から「イエス・キリスト」が出ることを、神はミカを通して語られた。そのキリストの誕生の先に見えるのは、神に愛された私たちの姿。永遠の昔から、神はキリストを通して私たちをご覧になっておられた。私たちがキリストを先に愛したのではなく、神がまず私たちを喜んでくださり愛してくださったのだ(Ⅰヨハネ4:10)。
神の私たちへの愛の期間は、永遠の昔から永遠の将来である。それほどまでの愛を私たちは見過ごすことができようか。この神の愛に、今日、私たちは全てのことをもってこたえようではないか。 (山本牧師)
2017年12月10日(日)
テーマ「神を知ることを喜ぶ」 聖書箇所:ホセア書6章4節~6節
ホセア書に記されている大切な真理は、1.神は、御自身の民が不忠実である時、苦しまれる。2.神は、罪を多めにみることができない。3.神は、御自身の民に対する愛の心を決して忘れられない。だから神は、民が神に立ち返ることを切に願っておられる。ということだ。
1.誠実を喜ばれる神
誠実とは一般的に「私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。」とある。聖書の言う「誠実」とは「契約関係の愛」を意味する。確固とした愛、ゆるぎない愛のことだ。お調子者のような振る舞いでもなく、うわべだけの愛でもなく、一時の愛でもなく、完全に契約に基づく愛の関係である。その誠実を、神は喜ばれるのだ。
世の中を見ても形式や儀式は多くあるが、内容が伴わない時、心からのものではない時、それは偽善でありいのちを失う。内容があるからこそ意味を持つ。プレゼントも、思いが詰まっているからこそ意味がある。「ありがとう」のことばに感謝の想いが詰まっているから、本当の「ありがとう」は伝わるのである。神は常に私たちの「誠実」さをご覧になられる。それは、「イエス様の十字架によって契約関係に入った関係」「神の恵みによる契約関係」だ。今日、私たちは心新たにして、誠実をもって主に従っていこうではないか。
2.神を知ることを喜ぶ
誰かを知る、ということは、親密な人格的な交わりのことを指す。聖書は、「知ることはいのちである」とも言っている(ヨハネ17:3)。神とイスラエルの関係は「夫と妻」という契約関係である。神が要求し、なおかつ喜ばれる関係とは「夫婦」としての関係である。その関係を回復するために「主」を知る必要がある。相手を知るには、相手に「心寄り添う」ことが必要ではなかろうか。「知る」ということが「喜び」であれば、何と幸いな関係ではないか。神は何を喜ばれるのか。それは朝もやのようなすぐに消え去る誠実ではなく、契約関係にある誠実であり、表面上の全焼のいけにえではなく、心から神を想い、神を知り、それを喜ぶ姿ではないか。 (山本牧師)
2017年12月3日(日)
テーマ「心を低くする者、高ぶる者」 聖書箇所:ダニエル書5章1節~23節
ネブカデネザルの孫であるベルシャツァル王は大宴会を催した。エルサレムの神殿の器で酒を飲み、異教の神々を賛美した。その時、指が現れて、宮殿の壁に不思議な文字が書かれた。彼は、顔色を変え、おびえ震えた。ダニエルはベルシャツァルに対し、祖父ネブカデネザルの生涯から教訓を学んで、神の前に心を低くすべきであったと責めた。
1.高ぶる者は歴史から学ぼうとしない
ベルシャツァルは歴史から学ぼうとしなかった。ネブカデネザル王が行なったことを知りながら、彼はそのことを人生の教訓として気に留めなかったのだ。彼は、反面教師の役でもあったネブカデネザル王から学ぶべきであった。私たちも、聖書を通して多くの人々の生き方を知り、それを教訓として学び、心を低くすべきである。「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。」(箴言12:15)
2.「私が」、「私が」、ではなく「神が」
ネブカデネザル王からの教訓として、4:30「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」とある。ここに高慢のしるしがある。それは、「私が」ということばの数で明らかだ。神の素晴らしさを知っていたとしても、私たちは自分中心に生きたがる。心の中心には「私」が居座り、そこには「神」のための席はない。私たちは、「神が」が主語になる会話をしているであろうか。
3.心の深みに潜む高ぶり
へりくだっていると思っている時が、高ぶりでもある。ある人はこういった。「本当の謙遜は、自分は心を低くしているということを知らずして、低くなっている姿勢である。」
そのことを、今日も共におられる聖霊は、聖書の歴史の中、みことばの中、祈りの中、賛美の中、そして生活の様々な局面で示して下さるのだ。高慢の罪、偶像礼拝の罪を悔い改めよう。神の前にへりくだり、神を賛美する人生をおくろうではないか。 (山本牧師)
2017年11月26日(日)
テーマ「あなたはこれを見たか」 聖書箇所:エゼキエル書47章1章1~12節
神殿から出た水は大きな流れとなり、その流域と、死海の一帯をよみがえらせた。
1.神殿から流れ出る水:
神殿から水が流れている。神殿は、神に出会う場所であり、罪を悔い改め、いけにえがささげられる場所、贖いがなされる場所だ。それは私たちにとって、キリストの十字架によって贖いがなされたところであり、罪赦される場所だ。神との関係が正しくされ、神と共に生きるところだ。
2.あなたはこれを見たか
実に不思議な川だ。約500m(千キュビト)ごとに、足首、膝、腰、と増え、約2kmで泳げるほどの大きな川となった。通常の川は、幾つもの川が合流して大きな川を形成する。植物を潤し、周囲の土地を満たせば水は減る。しかし、この川の源流は一つ(神殿)であり、その豊かさははかり知れない。神の恵みの業は今日も同じである。人生に豊かな川が流れることを望もう。
私たちの立ち位置はどこか。くるぶしで満足してはならない。この水は大きな川となるのだ。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37‐38)神は、聖霊の宮である私たちを通して祝福、生ける水の川を流すことを熱望されている。
3.神の川の無限と祝福を知る
その川は海(死海)に入る。エルサレムと死海の間は不毛地帯。「アラバ」とは荒野という意味で、アラブの語源。死海は文字通り「死の海」。海抜約-300mと低く、未来には深い海になると言われる。周囲が高いため水が外に流れず、塩分が溜まり生物は育たない。しかしエゼキエルは、荒野に水が流れ、この死海に水が流れ込み、すべてのものが生きると聞いた。千年王国においてはこれが目に見える形で、物理的にも実現するだろう。聖霊は私たちという宮に住み、私たちは祝福の器とされた。「死海」のように絶望的であっても、神のいのちの水の流れは、すべてが生きるのでだ。お尋ねしたい。「あなたはこれを見たか。」と。 (山本牧師)
2017年11月19日(日)
テーマ「悔い改めて、生きよ」 聖書箇所:エゼキエル書18章21~32節
エゼキエルは捕囚の民に、エルサレムに下される神の裁きの正当性を説き聞かせ、悔い改めを促した。最初は彼の警告に耳を傾けようとしなかった民も、エルサレム陥落後は徐々に聞くようになった。主によって心砕かれ自らの非を認めるように民に、彼は回復の預言を語った。「悔い改めて、生きよ」とは、張り裂けんばかりの神の愛の心から発せられたことばである。
1.悔い改めとは、心と態度の方向転換(エゼキエル18:30、31節)
捕囚の民のように、私達も罪を自分のこととして受けとめないで本当の回復(罪の赦し、癒しと解放、繁栄)は望めない。自らの罪のために失われてしまったものを回復する第一歩は、罪を捨て去って父の許に立ち帰ることだ。我に返ったとき放蕩息子が自分の非を正直に認め、謙った心をもって父の許に帰ったように。
2.悔い改め立ち帰る者に与えられる恵み(エゼキエル11:19)
主は与えると3回約束しておられる。これは悔い改め立ち帰る者に与えられる、恵みの確かさと豊かさとを表現している。石の心が取り除かれ、代わりに従順な肉の心が与えられる、これは大きな恵みだ。帰って来た息子のために父は一番良い着物、指輪、くつを惜しみなく与えた。これらは正真正銘息子であることの印であった。同じように主は、罪を悔い改めイエスを救い主と信じる者に、聖霊の証印を押して下さるのである。(エペソ1:13、14)主を知り、喜び真心をもって仕えるために。
3.悔い改め、生きることは主の御心であり命令である(エゼキエル18:32)
神はだれも死ぬ(滅びる)ことを喜ばない御方である。(使徒17:30)そのために神は御子を遣わし、大きな犠牲を払って救いを用意して下さったのである。今、私達はイエス・キリストによって生きる者とされていることを喜び感謝したい。(Ⅰヨハネ4:9口語訳) (川瀬協力牧師)
2017年11月12日(日)
テーマ「神のご性質にあずかる者になる」 聖書箇所:ペテロの手紙第二1章1節~11節
1.神の義
福音を語るとき、神の愛が強調される。しかし、神の義も忘れてはならない。神は「義」なるお方、全く正しいお方。私たちは、本来、罪ある者として生まれた。私たちの内には、既に罪が存在している。故に私たちは「義」なるものではない。私たちは「不義」であるため、「義」なる神とは釣り合わず、神との平和はなかった。しかし、イエスの十字架の死により神の義は全うされ、神の愛が同時に啓示された。私たちを「義」と認めて下さったのだ。十字架は、神の「義」と「愛」が調和されている。キリストの「愛」により「義」とされているのだ。
2.主イエスを「知る」こと
「知る」とは体験的に知ることを意味している。知識のみではなく、「交わってこそ知る」という意味。信仰は、神と交わらなければならない。神が言われたことを、私に言われたこととして聞いていくことである。従っていくとは、交わりの中に生きることである。
3.七つの備えるもの
救いの根拠は「イエスの十字架による身代わりの死」。それに付け加えるべきものは何もない。しかし、神の子として成長し、神のご性質にあずかり、隣人の祝福となるためには、幾つかの備えが必要。それは①徳②知識③自制④忍耐⑤敬虔⑥兄弟愛⑦愛である。加えるとは、「備える」とも訳せる。「コーラス」の語源から来ているが、コーラスを惜しみなく雇うという背景がある。思いっきりの良さや大胆さがあるのだ。貪欲に思い切って一生懸命に求めていくということ。
人が神に義と認められるのは、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ。これは救いの教理。その上で、私たちはさらなる豊かさの備えをしていく。自分の肉の力で頑張るのではなく、私たちの内におられる御霊が働いてくださっているのだ。
「聖潔を追い求めよ。それはクリスチャンの冠であり、栄光である。」スポルジョン (山本牧師)
2017年11月5日(日)
テーマ「神に近づこうではありませんか」 聖書箇所:ヘブル人への手紙10章19節~25節
クリスチャンが持っている2つのこと。一つは、いつでも神の前に歩み出ることのできる、大胆さ、確信。もう一つは、神と私たちの間に入りとりなしをして下さる大祭司イエスキリスト。
1.全き信仰で近づこう:
「全き」とは、「満たす」と「運ぶ」ということばが合わさってできたことばで「運び通す」と訳せる。「徹底させる」、信仰が一過性でなく、終始一貫していること。「近づこう」とは、もっと親しい関係になること。邪悪な良心とは、私たちの思いや感情が優先され、神の思いが優先されないこと。一見、謙遜な思いも、神の思いと異なる時、邪悪な良心となってしまう。
イエスキリストを信じたならば、全き信仰が与えられ、邪悪な良心がきよめられたのだ。何度も自分を責めてしまうが、イエスキリストがそのような私を救い出して下さった、完全な贖いをなされたのだということに目を留め、感謝と賛美をささげるべきである。
2.希望を告白する:
希望には、3つのことが要素がある。一つは、希望とは「将来のこと」。これから起こることを希望する。二つは、希望は「良いこと」。誰も悪いことを希望することはない。三つは、希望は「必ずそうなることを望む」こと。そして人生の最後になっても消えない希望。これが本物の希望であろう。それは永遠の都である。
3.愛と善行を促す:
「注意する」とは「情けをかける、励まし合う」という意味がある。聖書は「クリスチャンは決して一人では成長できない。」と言う。(詩篇133:1)ある聖書教師は、「一緒に集まる」礼拝は信仰生活の心臓部分である。と言った。愛と善行を行い、共に励まし合い、支え合う姿だ。そして教会は、決して裁き合わない。裁くならば、教会は砂漠になる。家庭、会社や友人同士で裁き合うならばその環境は砂漠のになる。愛と善行を行い、共に励まし合い、支え合う教会、それが、イエスキリストが私たちの前に開いてくださった道である。(山本牧師)
2017年10月29日(日)
テーマ「良いわざに熱心な民」 聖書箇所:テトスへの手紙2章14節
讃美歌「主われを愛す」の歌詞にあるように救いの目的は、私達がきよめられ、よき働きをするようになることである。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」(エペソ2:10)とあるように。良い行いが救いをもたらすものではないが、救いは必ず良い行いへと向かわせるものであることを心に留めよう。
1.すべての人を救う神の恵みの現れ(テトス2:11、3:4)
旧約時代に神の民が歴史の暗い谷間を歩くときも、ごく僅かではあるが信仰に生きる民がいた。彼らはメシアの到来と、イスラエルが慰められることを待ち望んでいたのだ。失望することも、この世に流されることもなく。私達が十字架上の主イエスを仰ぎ見るなら、恵みと憐れみに満ちた主の赦しと、自分がどんなに神に愛されている価値ある存在であるかを知るのである。
2.神の恵みのもたらす結果。
日々神を敬う正しい生活ができる。(12節)私達にそのことを可能とさせて下さるのは注がれた聖霊の力と恵みである。また祝福された望みである、救い主の栄光ある現れ(再臨)を待ち望むようにさせて下さる。この望みは世の誘惑に打ち勝たせ、主に対して誠実な歩みをさせる原動力でもある。
3.救いの目的。(14節)
良い行いに熱心な民を聖別するため。主にとって民は、「名となり、栄誉となり、栄えとなる」(エレミヤ13:11)ことが目的だ。みことばに心開いているだろうか。信仰をもって応えて行こう。」 (川瀬協力牧師)
2017年10月22日(日)
テーマ「安息日をきよく保つ」 聖書箇所:エレミヤ書17章19節~27節
安息日について:今日の箇所は、聖書でいう安息日に行ってはならないという神からの律法を破ったイスラエルに対して、警告を与えている。私たちにとっては、聖日は神のために区別された日と言える。安息日は、人間に対する神の肯定的なメッセージが含まれている。
1.安息日における賛美
神を礼拝し崇めることは、私たち人間(人間全体で考えても)にとってふさわしい態度である。また、クリスチャンは新しく造られた者として、二重の意味で神を賛美すべき。神は、私たちを神の民とし、賛美を住まいとされておられる。賛美の中に全能の力を現わされる。私たちは、安息の日に共に集い、礼拝をし、賛美をささげる中で、神のご臨在にあずかっているのだ(詩篇22:3-4)。
2.安息日のおける癒しと解放
安息日の本質を知るべきである。安息日とは「休む」(ヘブル語:シャバット)という意味。それは、「やめる、止める」ということ。神は天地創造の時、七日目に「シャバット」、つまり「中止」「中断」「安息」された。そして、安息日は人間のため設けられた。人間が安息日のために創造されたのではない。安息日は、他の一切のことに心奪われることなく、神が人間に対して愛を十分に注ぐためだ。
3.安息日における献身
安息日は、人間が自分を神にささげたものとして意識し、聖別する日である。クリスチャンが聖日礼拝を守るのは、御子イエスの血によって贖われた自分のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげる、献身の現われである(ローマ12:1)。礼拝を守ることは、神への「献身」「応答」だ。安息日は「時間の聖域」を与えてくれる。休んでいる時でさえ、神は必要を満たして下さると信頼することは、私から神への愛の表現であり、全き信頼と献身である(詩篇121:1-2)。安息日の本意は神を第一とすること。大切なことは、心における服従だ。神の前に悔い改めた心、献げられた心、神に従う決意を新たにした心が現わされてこそ真の安息日である。心のこもった、魂のある礼拝をさせていただこうではないか。(山本牧師)
2017年10月15日(日)
テーマ「イエス様に出会うと自分が好きになる」 聖書箇所:エペソ人への手紙2章1~10節
神様が私たちを造って下さったことが分かることほど人生の転機というのはない。つまり「責任は作者にある」ことを知るということ。作者が分かる時、私たちは生きている意味を理解する。
エペソの町は、下水もあり、100万巻の書物のある図書館もあったことから非常に発展していたことが容易に想像できる。同時にあらゆる神々で満ちていた。エペソの人々は、物質的に豊かで快適な生活を送っていたが、信仰の霊的な部分では渇きを持っていたであろう。パウロは、霊の目をもって生きるということ、イエス様が分かるということ、目に見える神々や石で作った死んだ神々ではなく、生きた神様に出会うことこそ価値あるものはない。ということを書き送った。
神様が「私たちを作品として造られた」ことを知るのは大切だ。どんなに素晴らしい生き方があろうとも、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従ってしか私たちは歩んでいない。自分の思い通りに生きることは魅力的だが、素晴らしいことではない。私たちが一番知るべきことは、自分を造った方、自分を生かして下さるイエス様に出会うということである。
少年院で出会う少年少女たちの中には、生きる希望を失っている者がいる。そこで「あなたは神によって造られた大切な宝物である」という話をする。「宝物は大切にされる。国宝級の宝である」と。イエス様に出会って初めて生きていることの意味、喜び、素晴らしさを知り、神様の作品として造られたことを知る。不従順の子らに「従って」とは、「操られ」という意味があるが、今、イエス様は罪を断ち切って下さり、真の生ける道へと歩ませて下さった。
イエス様に出会うと私たちは自分を愛することができる。自分の嫌なこと、失敗したこともイエス様にあってなら自分を好きと言える。私たちは良いことをしたから救われたのではなく、恵みによって救われたのだ。人生で一番辛い時期を歩んでいるならば、イエス様が私たちの側で泉を持っていて下さるということを知ろう。神様の作品としてイエス様のいのちが私たちの内にみなぎっているのである。
(中坊久行師:木幡キリスト福音教会牧師 文責:山本牧師)
2017年10月8日(日)
テーマ「主に帰れ」 聖書箇所:44章21節~23節
やがて、この世界にメシヤが来られて、罪に捉えられている人々を解放し、神のいのちの中に生かして下さることが、イザヤの預言の大きなテーマである。
1.あなたはわたしの「しもべ」
あなたは誰のしもべか(イザヤ44:21、41:8-10)。神は、私たちが仕えるべきお方、救ってくださるお方、奴隷のような私たちをその主人から解放し、自由にする贖い主。そして、強め、助け、義の右の手で私たちを守って下さる。44章冒頭の「エシュルン」とは、「真っ直ぐにする」「正しく考える」「物事を正す」といった意味から来ている。真っ直ぐとは言い難い不真実なイスラエルが「エシュルン」と呼ばれる。今日、私たちも「エシュルン」であり「しもべ」である。「私は主のしもべです。」と大胆に言おうではないか。
2. そむきの罪に気を付ける
22節「そむきの罪」。それはまことの神と人の人格的関係が断絶した状況。神を人生の計算に入れていないところ、神にそむいて生きることから、罪はきている。そんなイスラエルを、神の側では「エシュルン」であり「しもべ」と呼び、「あなたはわたしに忘れられることはない。」と言い、神から離れたイスラエルを、そして離れた私たちを癒し、回復し、贖ったと言う。神ご自身のものとして、代価を払って買い取って下さったのだ。
3. わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったから。
「帰れ」ということばはとても強調されていることば。そうした「立ち帰り」を可能とするお膳立てが、神の側では既になされている。それは「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。」という神のあわれみだ。「ぬぐい去った」とは、「先のことではあるが既になされたこと」としてみなすことで、「「かす」をこす」という意味でもある。私たちの罪は、かすもこすほどにの罪の赦しを得ている。
そこには爆発的な喜びの賛美がある(イザヤ書44:23)。主の贖いのみわざは、すでにイエス・キリストの十字架と復活によって実現している。「天よ喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。」と賛美しようではないか。
(山本牧師)
2017年10月1日(日)
テーマ「主はすばらしいことをされた」 聖書箇所:イザヤ書12章1節~6節
イザヤ書12章は、「小イザヤ書」と言われる1~12章の最後の章。
1.感謝をささげよ
「主はすばらしいことをされた」のだから、感謝すべきである。この賛美は、終末の日に私たちがする賛美であろう。しかし、その賛美は、終末の時に、私たちが主とともにいるという約束を今日もいただいてるがゆえに、今でもささげられるべきである。「あなたはわたしを怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」本来の罪ある私たちならば、私たちの存在は無きに等しいものである。ところが、怒りが去り、そのような私たちを主は慰めてくださったのである。
2.感謝の中心は救いである
感謝の中心は「救い」である。それは、かつて救われた時のことだけではなく、今日も継続して救われていて、その日、終末の日にも確実に私たちに与えられた救いなのである。ゆえに、私たちは今日もこの救いを感謝し、賛美する。
3.主をほめ歌え。
この教会の中にも主がおられ、私たちを救われる方であるということを、大声をあげてほめ歌うべきである。神を賛美することは信仰生活の中心である。今日、私たちの中にはどのような賛美があるだろうか。3つの有名な讃美歌「いつくしみ深き」「おどろくばかりの」「キリストにはかえられません」は、人生の嵐の中での賛美だった。賛美の中心は、今日も喜ぶべき救いである。そして全世界に告げ知らせようではないか。「主は大いなる方!」である。 (山本牧師)
2017年9月24日(日)
テーマ「平和の礎」 聖書箇所:イザヤ書2章3節
北朝鮮をめぐる朝鮮半島情勢が緊迫してきた。戦争が起こることが懸念されるが、心を騒がせるのではなく、むしろ聖書のみことばによって備えをさせていただこう。
①産みの苦しみの始まり。イエスによる「世の終わりの前兆」(マタイ24:6~8)・戦争と戦争のうわさ。・民族と民族、国と国とが敵対する。・飢饉や地震など天変地異の頻発。神は人間に罪深さと愚かさとを教え、悔い改めと救いに導くために戦争をお許しになることがある。私達はだれにも惑わされず、慌てないためにも神の救いのご計画の全体像を知り、心の備えをしよう。天変地異に、自然界も「ともにうめき、ともに産みの苦しみ」(ローマ8:22)をしている事を見る。
②平和の礎であるキリスト。やがて地上にお生まれになられるメシアは「平和の君」(イザヤ9:6)と預言されている。キリストは私達を神と和解させ、平和をもたらすために来られた。(ローマ5:8)自己中心な罪の性質を持つ人間は、神との平和を持っておらず、他者に対しても敵対心を持ちやすい。それ故に、人間の力や努力では恒久平和を作り出すことは不可能だ。
③平和の君による王国。終末において、キリスト再臨後に打ち立てられる王国の特徴は、ⅰ.全ての国民によって主の御名が高くされ、崇められる王国である。ⅱ.王国に入る国民は、主のみおしえを喜び慕い求める人たちである。その結果「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」)ⅲ.武器の廃棄と戦争放棄。平和の完全実現。日本が、「主の光に歩もう」という招きに答える時が早く来るように祈ろう。(川瀬協力牧師)
2017年9月17日(日)
テーマ「永遠への思い」 聖書箇所:伝道者の書3章11節、4章7~12節
1章2節「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」このことばに多くの人々は共感を持つと言われる。それは、「人生は持ったと思えば失う。人生の終わりには何も持たずに死んでいく。」から。ソロモンのメッセージは、「人は神を恐れなければならない。神を恐れよ。神の命令を守れ。」ということである。
1.永遠への思い: ソロモンは非常に栄華を極めた、裕福で名声のある王であった。しかし「なんとすべてがむなしいことよ」と言った。ソロモンは多くの財産を得ながら、むなしさを覚えていたが、そこに「永遠への思い」「神への思い」を抱き続けていた。私たちは永遠の思いを持っているだろうか。全ての人は人間である以上、人生の目的、意義、また最終着地点を探している。
2.のぞみを神に: 知恵、知識、富、財宝など、私たちの回りにあるものすべては、神が与えて下さった賜物である。しかし、その賜物そのものに拠り頼むことは真の幸せとはならない。ソロモンは何と言っているか。「神を恐れよ。神の命令を守れ。」それは神に望みを置くこと。(テモテへの第一の手紙6:17)
3.「日の下」から「天」に: 日の下にあるむなしさから、天に挙げられたイエス・キリストに目を向ける時、そこに希望がある。なぜなら、イエス・キリストは今日もあなたに手を差し伸べて下さっているから。一人でいる時には、倒れてしまう。暖まらない。打ち負かされてしまう。しかし、二人ならば仲間を起こす。いっしょに寝ると暖かい。立ち向かえる。そこに、イエス・キリストの御姿がある時、三つ撚りの糸としての人生を歩むことができる。「日の下」に目を向けるのではなく、天に昇られたイエス・キリストに目を向け、むなしさではなく永遠の希望をいただこう。 (山本牧師)
2017年9月10日(日)
テーマ「あなたの歩む道」 聖書箇所:箴言3章5-6節
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
1.自分(人間)の限界を知る
クリスチャン哲学者ニーメラーのことば「変えられない現実は静かに受け止めること」。私たちは自分の限界を知り、静かに、素直に受け止める必要がある。また、人の目のことを考えても「神の目は、どのように私を見ているのか」とは考えない。神の目は「愛の目」。愛のまなざしをもって関心を持っておられる。
2.主に寄り頼む。みことばに寄り頼む。
日々、聖書のみことばによって自分を照らすこと。「心を尽くして」の「心」は理性的な面を強調する語彙。つまり頭を使って、「主を信頼する」ことがどういうことかを、様々な出来事や人物を通して「考えて見よ」ということ。
「拠り頼む」ということばは、全幅の信頼、身を任せること。真の幸せな道とは「自分の願いの叶う道」ではなく、「神が用意してくださった道」を歩むこと。その道は、たとい患難があっても平安に満ちた道。その道こそ「まっすぐにされた」道である。
3.道なるイエス・キリスト
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)。道にはいろいろある。車道、下道、人生の道、悟りの道、武道、剣道、茶道など。道は日本人には「教え」という側面がある。新約聖書で、道は「イエス・キリスト」ご自身であるという。イエス様が私の人生の道そのものになって下さるという。そのイエス様とともに歩むならば、イエス様の祝福が私たちの祝福としてあらわされていく。 (山本牧師)
2017年9月3日(日)
テーマ「あなたを満たす神」 聖書箇所:詩篇81篇1-16節
「ギテトの調べに合わせて。」の表題がある時、喜びの賛歌を期待してよい。これは「仮庵の祭り」の時にうたわれた。この詩篇を大きく2つに分けるなら、1-5節「礼拝の喜び」、5-16節「信仰の従順による祝福」「祝福の神からのメッセージ」である。
1.さあ賛美しよう
1-5節は「礼拝の喜び」であり、「喜び歌え」から「喜び叫べ」へと飛躍し、人々の声から楽器へとムードが高まっている。賛美の素晴らしさ、礼拝する喜びが表れている。賛美には特別な力がある。歌う人にも聞く人にも感動と新しい力を与える。
2. あなたの口を大きくあけよ。
イスラエルの民は、エジプトの苦しみから解放されたが度々不信仰に陥る。それでも神はイスラエルを愛し、あわれみ深く救い出される。 私たちは自分の方法で努力するが、神は与えたいと願っている。「大きく口を開ける」ことは神が私たちに要求していること。神が自分にどんな良いことをしてくださるのか、ウキウキ、ワクワクしながら期待をすること。また、「勝利の宣言」や「告白、賛美」することを意味する。賛美、愛、信仰で満たすのは神。「あなたの口を大きく開けよ」というチャレンジに、私たちは神に大胆に求めようではないか。
3.岩の上にできる蜜を得よ。
岩の上に蜜とは、岩の裂け目の上にミツバチが巣を作り、その蜜がしたたり落ちている状態。これは、「思わないところにある神様の祝福」を意味する。私たちは計算して祝福を得ようとするが、神は想像もしない祝福を人生の中に与えて下さるお方である。 (山本牧師)
2017年8月27日(日)
テーマ「信仰による救いと祝福」 聖書箇所:ガラテヤ人への手紙3章9節
今年は、マルティン・ルター(1483~1546)による宗教改革からちょうど五百年を迎える記念すべき年である。
①ルターの経験:彼はカトリックの修道士として、禁欲的な生活をし、罪を犯さないよう努力し、できる限りの善業を行ったとしても、神の前で自分は義であると確実に言うことはできない。この現実を直視していたルターは、苦しみ続けたが、あるとき突如として光を受けたように新しい理解が与えられる経験をする。そこでルターは、人間は救い主イエスを信じる信仰によってのみ義とされること、すなわち人間を義とするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、心に平安を得ることができた。のちに「信仰義認」と呼ばれる福音の真理の再発見であった。(ガラテヤ2:16)
②福音の中心はキリストの十字架の死:パウロとバルナバが第一次伝道旅行で訪問したガラテヤ地方教会に、のちに重大な教理上の問題が生じた。自称教師達がモーセの律法を守る必要性を説いて回ったのだ。ユダヤ人のようにならなければ異邦人は救われないと。そのことは「信仰により恵みによって救われる」という福音とは真っ向から対立するものであった。私達もしっかりとキリストの恵みにとどまって、福音理解が深められる必要がある。主イエスの十字架の死によって律法の要求はすべて満たされた事実を堅く信じよう。
③祝福を受けるには信仰が必要:アブラハムも信仰が何度も試みられた。そのとき彼に見られたのは、神の約束を堅く信じる信仰であった(ローマ4:20~22)。 アブラハム祝福の継承者として召された私達も、彼の信仰にならい生きる者とさせていただこう。「義人は信仰によって生きる」。 (川瀬協力牧師)
2017年8月20日(日)
テーマ「神の前の正しさ」 聖書箇所:ヨブ記23章1-7節
ヨブ記の主題は「義人がなぜ苦しまなければならないのか」である。彼は敬虔な人物で、全てにおいて祝福されていた。しかし、彼は全てを失い、深い苦しみと悩みの中に陥った。熱心で敬虔な信仰者であっても、人生の試練を受けることがあることを聖書は教えている。
〇三人の友人エリファス、ビルダデ、ツォファルは、ヨブの苦難を、因果応報、自業自得として話をする。試練に会う時、神、人に対して、私たちはどのような態度をとるだろうか。
1.ヨブは自分の正しさを訴えた
「義人はいない。ひとりもいない。(ローマ3:10)」「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。(エレミヤ17:9)」ヨブは自分の正しさを訴えた。自分の力で信仰生活を歩むとき、自分の力が尽きると崩れる。自分の力による信仰の歩みは、神のいのちがないため続かない。
2.神は沈黙されていても、ご覧になっている
ヨブは、かえって頑なになるばかりであった。叫んでも姿を現されない神に対し、迷いのことばを連ねている。ある陶芸家は、良い作品を作るために火の中に何度も入れるそうだ。その過程を経たものは非常に良いそうである。窯の中に入れた作品は一時的に見えなくなるが、彼は作品のことを絶えず気にかけ、最善の時に、窯からその作品を取り出す。そうして出来上がった作品は、多くの人を喜ばせる。作品が窯の中にあるように、私たちは神から離れているように思う。神は沈黙していても、作品のため忍耐し、神の思いが絶えず私たちに注がれていることを忘れてはならない。私たちは最高の陶芸家に身を任せるべきである。
3.イエス・キリストの十字架によって神の愛が示されている
神を信じるとは、その神の主権を受け入れること。神の私たちに対するご計画は、あくまで「善、良い計画」。新約の光に照らして考えるならば、御子イエスの十字架の死に現わされた愛こそ、神の善意の保証。そして、その保証を聖霊が私たちに明らかにして下さる。 (山本牧師)
2017年8月13日(日)
テーマ「信仰の判断」 聖書箇所:ネヘミヤ記6章1-16節
「エルサレム城壁の再建(建て直し)」の箇所。ネヘミヤはペルシャ帝国の王宮で献酌官であった。献酌官とは、王に話ができる立場であり、王の飲食の安全と質を確保する仕事であった。ネヘミヤは思慮深く、常に祈る人であった。ネヘミヤは、エルサレムの城壁が荒れ果て、ユダヤ人が悲惨な状況にあることを知る。その状況を改善し城壁再建のため、王に帰国を願った。城壁再建は神の御心であると悟った。
1.破れ口は残されていないか
ネヘミヤの仕事ぶりは破れ口がなく丁寧であった。破れ口があると、敵に侵入されてしまう。彼は「神の御心」を知っただけでなく、その御心にかなうように冷静に対処した。私たちの信仰の城壁に破れ口はないであろうか。サタンはほころびから私たちを攻めてくる。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。箴言4:23」
2.神へのまっすぐな祈り
6:9「ああ、今、私を力づけてください。」これはネヘミヤのとっさの祈り。主は私たちのまっすぐな心の声を聞かれるお方である。その祈りは「信仰の告白」でもある。
3.冷静な判断はみことばによる
シェマヤは、ネヘミヤが殺されてしまうという危険を知らせ、神殿に隠れるように忠告した。しかしシェマヤの真の思いは、ネヘミヤに罪を犯させ、民からの信頼を失わせ、ネヘミヤを孤立させることであった。神殿には祭司だけが入ることができ、祭司ではないネヘミヤが神殿に入ることは許されなかった(民18:22)。ネヘミヤは、神殿に入ることは律法に反するがゆえ、神の御心でないと悟った。彼は常に神のみことばに対して忠実であった(ヘブル4:12)。
御霊が私たちを慰め、励まし、さとし、知恵を与え導いて下さる。日々、破れ口がないか教えていただこう。心からの祈りをささげ、生きたみことばによって、主の御心にそった信仰の判断をすることができるように(ヨハネ14:26)。 (山本牧師)
2017年8月6日(日)
テーマ「神のご計画の確かさ」 聖書箇所:エズラ記1章1-11
ペルシアの王クロスが、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民をエルサレムに返すところである。このことは、預言者エレミヤによって語られた主のみことばが成就するためであった。(エレミヤ29:10-11)
1.聖書のみことばは確かであり必ず成就する
聖書ほど完璧に預言が成就している書物はない。イエス・キリストの来臨の預言は旧約聖書の中で約350あり、ことごとく成就している。世界の歴史にかかわる預言も多くあり、実現している。バビロン捕囚に関しても、イザヤはユダヤ民族の捕囚先がバビロンであることを語り、エレミヤは期間が70年間であることを預言した(イザヤ39:6)(エレミヤ25:11)。世界史でもバビロン捕囚が70年間であったことを証明している。イザヤは生まれていないペルシャの王クロスの名前を預言し、このクロスが神殿の再建を助ける者となることを語っていた(イザヤ44:28-45:4)。
2.神はご計画のために未信者をも用いられる
ペルシャの王クロスは、信仰を持っていたわけではないが神はクロス王を用いられた。その目的はクロス王のためではなく、全世界の人々が、主こそ真の神であることを知るため。私たちの生活の中にも主はご計画を着実に進めておられ、主を信じていない人々の中にも偉大な御手をもって働かれている。それは、全ての人々が主こそ生ける真の神であることを知るため。
3.神の宮の回復
神の救済の目的は、神のみことばが確かであることと、神の愛の故に他ならない。1:1「奮い立たせて」=「感動させて」(口語訳)。神は御心を成し遂げるために、神を信じていないクロスでさえも「感動させ」るお方。主は今日も私たちという神の宮を救い出し立て直したいと願っておられる。神はすべてのことを用いて御心を成し遂げておられる。私たち人類に対する神のご計画は現在進行形である。主よ、私たちという神の宮を回復させ、一人でも多くの神の民が救われますように! (山本牧師)
2017年7月30日(日)
テーマ「聖霊による宣教の前進」 吉田隆師 聖書箇所:使徒の働き1章8節
ネパール宣教(2017年2月KBIアウトリーチ)の報告。 ネパール:現在、世界で一番クリスチャン人口の伸び率が高い国。1970年に0.1%であったネパールのクリスチャン人口は、2020年までに3.8%になるであろう。ホザナ教会は著しく成長している。前主任牧師のラジュ師に、カースト制度底辺の人々、性的堕落に陥っている人々への救霊の思いが与えられ、教育・学校の普及が行われている。ラジュ牧師の思いは「ヴィジョンは大きく、働きは小さなことに忠実に!」であり、2020年までに500の教会を開拓するビジョンが与えられている。現主任牧師サントス師の父親の病が癒され、家族が救われた。無理に証ししないが、祝福されていることを周囲が知り、集まってくることから伝道をしている。
『日本のリバイバルに向けて考える事』
1、日本、韓国、中国を主はつないで用いられる:3か国が霊的に今後繋がれ用いられると信じている。ある調査機関が、日本のクリスチャン人口は6%という統計を出している。
2、神にとって、不可能なない:日本にとって否定的な要素があっても、神様はリバイバルが起こせないということはない。
3、サタンは日本を縛っている:サタンは日本を縛っているが、かつての戦国時代のクリスチャンたちは忠実であり、尊い血が流された。神はこの血を忘れてはおられない。
4、西欧諸国に頼る時代は終わろうとしている:かつてのキリスト教国の力は弱まっている。アジアの力は伸びている。この日本も用いられる。
5、短期的なリバイバルに終わらせないように気をつけなければならない:ペンサコーラ、トロントのリバイバルは、終息していった。リバイバルの火は、各地に広がっていくべき。
6、一定の時間を要することを考えなければならない:国家的なリバイバルは、それなりの時間を要するかもしれない。インドネシアも6%、13%、30%という段階を踏んでいる。
7、リバイバルの向こうにある目的から目をそらしてはならない:今よりも顕著な聖霊の働きがなされ、賛美、礼拝が祝福される。しかし、それが終わりではない。それは私たちの周囲に福音を伝えることの始まりである。(吉田隆師)
2017年7月23日(日)
テーマ「ダビデの三勇士」 聖書箇所:サムエル記第二23章8-17節
ダビデの三勇士として聖書に名を留めている、ヤショブアム、エルアザル、シャマの三人は、民の中でレジェンド(伝説)とされた人たちであった。聖霊ご自身が繰り返し彼らの信仰を称賛している。
①主の計画実現のために尽力した。(Ⅰ歴代誌11:10新共同訳)主のことばに従って協力し尽力した人たちであった。彼らは荒野をさまようダビデを保護者と仰ぎ、ダビデの信仰を素直に受け入れ、主君の心を尊んで行動した。彼らはダビデに未来の民の王を見ることができた幸いな人たちであった。
②勇士は敵に立ち向い逃げない。彼らに共通するものは、信仰に堅く立って敵に立ち向ったことだ。シャマは主君ダビデが持っていた、主を呼び求める信仰を習得していたことが十分考えられる。困難な所に踏みとどまるには、信仰の足腰が強くなければならない。私たちが厳しく思える環境も、祈りの人・信仰の人に形作られる神の作業場であることを覚えたい。また、そこで神の約束を信じて大逆転勝利を見させていただこう。(Ⅰペテロ5:9、ローマ8:37)
③三勇士は主君に対する愛・献身・忠義において抜きん出ていた。具体的現われが「ベツレヘムの水汲み作戦」である。
ⅰ.彼らはダビデが切望する声を聞くことができた。彼を愛していたから。
ⅱ.すぐさま行動に移した。自らの命の危険を冒してまでも。
ⅲ.ダビデはそれを注ぎ主に献げた。三勇士の行動はダビデのどんなに勇気付けたことだろうか。武勲では彼らに優る人たちがいても、主君の心を満たすことにおいて、彼らの右に出る人たちはいなかった。奉仕の精神は主への愛であることを心にとめよう。(川瀬清文 協力牧師)
2017年7月16日(日)
テーマ「神の恵みあふれる者」 聖書箇所:コリント人への手紙第二9章6-11節
エルサレム教会は経済的に困窮していた。そのため最初に立ち上がったのがコリントの教会で、このささげる行為に大いに触発されたのが、苦しみと試練、貧しさの中にあるマケドニヤの諸教会であった。そしてコリント教会より先に献金を集めた。当のコリント教会では、献金は殆ど集まっていなかった。パウロはコリントを訪問しようと考えていて、励ましの言葉を送った。献金は国に対する公務を意味する「奉仕」、「奉仕のわざ」であり、「恵みのわざ」(8:6,7)とも言っている。当然すべき奉仕ならば、必要な物は神が備えて下さると信じていた。
1.豊かに蒔こう
私たちの神は豊かな神。畑に少しだけ種をまけば、その分の実りしかない。畑に豊かに種をまけば、その豊かさに従って実りが与えられる。詳訳聖書(9:6)「けちけちしてまく者は、刈り入れもけちけちしており、気前よく、祝福が誰かに及ぶためにまく者は、刈り入れも祝福がある。」
2.喜んでささげよう
「いやいやながらでもなく」とは「悲しみながらでなく」という意味。「強いられてでもなく」とは、自発的な心からささげる行為。マケドニヤの諸教会は、苦しく、試練にあい、とても貧しい教会であったが「満ち溢れる喜び」により、「自発的」に「持っている力以上に」ささげた。それは「聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたい」熱心さの故。
3.神の恵みあふれる者
9:8の原文は「すべて」と訳せることばが五回ある。神は「すべて」のことに「あらゆる恵み」を「あふれるばかりに」与えることができるお方。私たちが豊かに蒔くことができるのは、神の恵みによって与えられた結果。その恵みは祝福を流す原動力。愛、あわれみ、慰め、優しさ、労り、励まし、みことば、信仰の種をまこう。神は必ず祝福してくださる。(山本牧師)
2017年7月9日(日)
テーマ「パウロが据えた土台」 聖書箇所:コリント人への手紙第一3章1-17節
コリントの教会には妬みや争い、分派があった。それ故にパウロはコリント教会にこの手紙を送った。彼は人の状態を3種類の人のパターンで例えている。生まれながらの人(2:14)、肉に属する人、御霊に属する人。コリントのクリスチャンたちは、「肉に属する人」の段階にとどまっていた。パウロは、党派心、ねたみ、争いがあるならば、「御霊に属する人」ではなく、「肉に属する人」であると責めている。
1.中心は神
指導者たちは神の協力者であり、私たちは神の畑、神の建物である。神の協力者、神の畑、神の建物と「神」ということばが常に先頭に置かれている。教会の中心・原動力は「神」であって他の何ものでもない。「成長させたのは神です」という箇所は、今現在も継続していることを意味する。
2.土台の重要性:土台はイエス・キリスト
パウロは賢い建築家のように土台を据えた。賢いとは(ギ:ソフォス)、「熟練した」ということ。これはパウロの自慢ではない。彼が徹底して行ったことは、土台をイエス・キリストしか据えなかった。という自信であった。参考:2:2「イエス・キリストしか知らないと決心した。」
3.私たちは神の神殿
私たちの土台、建築材料は、神の目から見てどのような状態であるかを考えよう。私たちには神の御霊が住まわれキリストの香りは今日も漂っている。一緒にいれば似てくるものである。
イエス・キリストに救いがあり、愛があり、恵みがあり、力があり、慰めがあり、癒しがあり、平安があり、希望があり、全てのすべてである。私たちがどんなに罪深く、弱さや痛みを覚え、不信仰になっていたとしても、イエス・キリストの十字架のもとに行く時、主は「わたしがあなたの土台である。」と仰ってくださる。(山本牧師)
2017年7月2日(日)
テーマ「主が目を開かれた」 聖書箇所:列王記第二6章15-23節
1.「信仰のことば」と「とりなしの祈り」
召使はまずエリシャのもとに行った。本心をそのまま伝えた。飾った言葉でなく、考え抜いた言葉でもない。私たちが困難に陥ったとき、私たちの主人である神のもとに、そのまま全てを伝え、差し出そう。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」詩篇50:15
敵であるサタンは、私たちを孤立させようとする。直面している問題に対し絶望させ、不信仰な思いを与え縛り付けようとする。他の信仰の人と繋がることを妨げようとする。困難に陥ったとき、分かち合い信仰のことばで共に祈ることは大切である。
エリシャが召使のために祈ったように、とりなしの祈りをしよう。盲目の目を開くのは、聖霊なる神の働きである。使徒パウロもとりなしの祈りをしている(エペソ1:17-19)。
家族のため、友のために祈ろう。共に信仰のことばにより励まし合い、主の備えをいただこう。
2.私たちへの備えはすでにあったということ。
火の馬と戦車は既にそこにあった。目が開かれ、すでにあった神の軍隊に気付いた。神は私たちが目で見ていることより、実際にはもっと多くのことを準備されている。
3.神の人としての行動は、人の心を打つ。
アラムの軍隊は、預言者と神の民から盛大なもてなしを受けた。神の愛に生きるものの交わりの中に、神は素晴らしい祝福を与えて下さる方。それは私たちにとって恵みであり、他の人のためのキリストの証となる(ヨハネ13:34-35)。
私たちが聖霊に満たされ、私たちの目が開かれるように。主よ、開いてください!(山本牧師)
2017年6月25日(日)
テーマ「ソロモンの背信」 聖書箇所:列王記第一11章1-13節
イスラエル王国の分裂の原因を生じさせたソロモン王晩年ほど、暗い聖書記事はない。彼の生涯は三つの時期に分けられる。
第一期は治世の初期で、主に愛され彼も主を愛しダビデのおきてを歩んだ。主に願った知恵ばかりでなく、富と誉れも与えられた。
第二期には栄光の頂点に達した。神殿を奉献した日は生涯で最良の日々であった。しかし、富と繁栄が与えられた後、それらを維持するために、自分の力で守ろうとした。
第三の時期になると、その栄光はすでに消え去り、崩壊は足早にやって来た。
①ソロモン失敗の原因。
ⅰこの世の繁栄を求めた。異邦の世俗国王の王が選択する道であった。
ⅱ主を求める心を失わせた。平和な治世こそ、民と共に主を求めさせる好機であったがそれをしなかった。
ⅲ主の現れによる警告に応答していない。(Ⅰ列王9章)聞き流したのだろうか。悔改めに導かれる主を無視することは危険なことだ。
②ソロモンの罪と主の怒り。
神が禁じたものを愛し離れなかったことは、主への犯行で不従順である。主から離れて偶像礼拝を招き入れた罪は余りにも重い。主の裁きによって、息子の代に国は分裂する。私たちは後世に何を残すだろうか。
正しい歩みを全う出来るよう、主に求めよう。(ルカ10:42) (川瀬協力牧師)
2017年6月18日(日)
テーマ「この身をささげて」 聖書箇所:ローマ人への手紙12章1-2節
この箇所で勧められていることは、私たちがすることは「礼拝である」ということ。
1.「全き献身」
・「お願いします」:パウロは「ささげること」を「お願い」している。ここでは「パラカロウ=お願いします」という言葉から始まっている。心からの熱心さがうかがえる。
・「そういうわけですから」:「そういうわけ」は1-11章の福音の原理。私たちは信仰によって救われ、義とされ、キリストのうちにあるものとなった。御国の相続人であり、祝福された者。
・「からだをささげる」:血と肉を持つ現実の肉体、現実のあなた自身という意味。
・「捧げること」:レビ記のいけにえを捧げることと同じ意味。「私たちの全存在を意味する」。
・「生きた供え物」:旧約時代、献身は「全焼のいけにえ」であった。新約時代は他のいのちを犠牲にしない。イエス・キリストが完全な捧げものとして犠牲になられ、贖いを一度で成し遂げられたから。私たちは丸ごと救われたのだから、丸ごと心から嫌々ではなくすすんで捧げよう。捧げものとは痛みを伴う。イエス様は痛みを担われた。
・「霊的な」:感覚的なものではなく、神の恵みをよく考えて理性的な結果、神様に捧げるしかないと結論して捧げること。理にかなって「理性的」に「論理的」にささげる「献身」である。
・「礼拝」:労働、勉強、家事、趣味、私たちの生活全てにおいて礼拝すべきである。「奉仕」とも訳することができ、私たちの全存在をもって毎日神に仕えて生きることを指す。
2.「御霊によって」
・この世:「人間本位の時代」を指す。ここでは「津波のように押し寄せてくるこの世から守られなさい。この世の陰謀、計画が押し寄せてくる。この世に負けるな。」という意味。
・心の一新によって自分を変えなさい:「自分から変える」というより、「神の御霊により、私たちの本質が変えられ新しくされること」を意味する。100%明け渡そうではないか。(山本牧師)
2017年6月11日(日)
テーマ「砕かれた、悔いた心」聖書箇所:サムエル記第二 12章1~14節 詩篇51篇16-17節
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」
1.【人間は罪人である】イスラエルの王として多くの戦いを経験したダビデは、優雅気ままに暮らす生活へと変わっていた。順境な時は誘惑が多い。ダビデは、ウリヤの妻バテ・シェバに心惹かれ、姦淫の罪を犯してしまう。手入れをしない土地はすぐに雑草やいばらが茂る。私たちは、聖書のみことばによっていつも手入れされている必要がある。聖霊様がみことばをもって語ってくださいますように。
2.【人は罪を隠そうとする】罪の結果、子どもができ隠そうと懸命になるダビデ。結果、ウリヤを戦場の最前線に送り出し、殺してしまう。罪は、雪だるまのようだ。人は罪を覆い隠そうとし、その罪は人を信仰の道から逸れさせ、神への思いを鈍らせる。だが神の目には全てが明らか。預言者ナタンにより罪が示された。「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」箴言5:21
3.【罪の告白を主は聞かれる】人の罪を知っておられる主に対し、すぐに罪を認め告白したダビデ。すぐに告白したことはダビデの偉大なところだろう。ダビデは徹底的に罪を悔いた。私たちは自分の罪を正当化してしまう。正直に罪を告白しようではないか。
4.【神は恵み深いお方である】主は私たちが罪を認め告白する時、赦して下さるお方。神は赦そうと備えて待っておられる。そのようなお方ではないか。罪を赦すことができるのは神だけの権利。私たちは、今日、そして今晩、告白しようではないか。
5.【砕かれることは新しい出発である】ダビデは7日間祈ったがその後は、食事をして普通の生活に戻った。文句を言わずに普通の生活に戻ったダビデ。砕かれた、悔いた心がいつも新しい出発点である。 (山本牧師)
2017年6月4日(日)
テーマ「聖霊に満たされ」 聖書箇所:使徒の働き2章1-13節
ペンテコステに聖霊が力強く望み、弟子たちが聖霊に満たされた。この出来事により、聖霊の力によって福音が広まり、救いが世界中にもたらされた。
1.神の時が満ちたペンテコステ:
「五旬節の日が満ちて」(別訳)。「神が定められた時」に聖霊が注がれた。これは神のご計画の成就(使徒2:16)。人間の目には偶然と思えても、神の目には必然。
2.みことばに従った人々がいた:
エルサレムを離れず父の約束を待ち、聖霊のバプテスマを受けることを待ち望んだ弟子たち(使徒1:4-5)。弟子たちは忠実に待った。忠実はピストス(ギリシャ語)、信仰はピスティス(ギリシャ語)。信仰と忠実は密接な関係。不忠実なら恵みのチャンスを逃している。忠実であるように祈ろう。みことばが成就するように期待しよう。
3.聖霊に満たされよ:
新約で「聖霊に満たされる」と訳される動詞は「ピンプレーミ」と「プレーロオー」。今回の箇所は「ピンプレーミ」。聖霊に満たされ「ことば」を「語る」、「語る力」が与えられた。この満たしは同一人物が繰り返し経験するもの。
「プレーオロー」はキリストの内住。考え方、生き方が御霊に支配されるようになること。生活の中に御霊の実「愛、喜び、平安、・・・」が結ばれていく。聖霊の満たしの目的は福音に生き、福音を伝えること。私たちの生活の中に宣教地があり、使命がある。聖霊の内住と共に、聖霊の炎によって強められようではないか。聖霊に満たされよ! (山本牧師)
2017年5月28日(日)
テーマ「父の約束」 聖書箇所:使徒の働き1章5節
聖霊降臨日であるペンテコステを迎えようとしている。主イエスは十字架と復活によって救いの土台を完成し、昇天と高挙によって弟子に聖霊を注がれた。
①聖霊が賦与されるという旧約時代の約束。(イザヤ44:3・4)
ⅰ:多くの預言者が、やがて民に聖霊が注がれる新時代の到来を告げた。
ⅱ:アブラハムへの祝福が異邦人に及ぶ。(ガラテヤ3:14)信仰の父である彼は、聖徒の原型であるその信仰が義と認められ聖霊の恵みに与っていた。彼はその聖霊によってメシヤ受難とそれに続く栄光とを見ていた。(ヨハネ8:56)主はアブラハムへの祝福が、霊的子孫であるキリスト者に及ぶという約束に基づき、もうまもなく御霊の恵みが注がれることを話された。
②聖霊賦与の目的。
ⅰ:聖霊のバプテスマによって弟子たちを聖めるため、彼らの肉的性質、自己中心から生じる高ぶり、争い、妬みを焼き尽くし、愛と一致ある集団とするため。
ⅱ:主の人格を深く知り、内側から造り変えられるため。主を人格的に深く知ることが霊的成長であり、証人としての力である。
③弟子たちは自分の無力さを知り、父の約束を信じ祈り待ち望んだ。私たちの心は渇いていないだろうか。主の祝福の通りよき管となるためにも、主の約束を信じて祈ろう。 (川瀬協力牧師)
2017年5月21日(日)
テーマ「神の御声」 聖書箇所:使徒の働き10章9-16節
異邦人コルネリオとペテロとの出会い。これはユダヤ人以外の異邦人にも福音が及ぶ歴史的な出来事。福音が全世界に届けられることは神の熱心な御心、望み。敷布の生き物は異邦人をあらわす。異邦人の救いの幕開け。また、ペテロの人間的な偏見があった。救いはユダヤ人だけのものであり、異邦人は救われない、という偏見。その偏見も主は正された。
1.祈りの中で主は語られる:コルネリオもペテロも祈りの人。いつも時間を決めて祈っていた。誰でも「祈る」ことはできるであろうが、「いつも祈る」ことは容易いことではない。神の御声は、祈りの中にあったことがわかる。神は私たちの祈りを今日も覚えておられ、語られる。
2.神は神の時に働かれる:私たちが時を定めているのではない。神が時を定めておられる。コルネリオの救い、遣いの訪問、御霊の語りなど全て絶妙なタイミング。神のご計画はベストタイミング。神の私たちへのご計画にも時がある。それは「早すぎること」もなく「遅すぎること」もない。
3.ペテロの信仰を成長させる方:神は、ペテロの信仰の成長を望まれた。イエスの一番弟子であり、多くの御業を体験したペテロ。それでも信仰において修正が必要であった。私たちも、絶えず修正が必要。また、人間は急いで結論を知りたがる。結果が見えなくても信仰により進み行く時、主はその真実を後に明らかにして下さる。
4.神のことばを思い巡らすこと:思い巡らすことは、新しい信仰の領域への一歩。神のことばに思い馳せる時から、新しい信仰生活の領域は始まっている。私たちは出来事に溺れていくのではなく、その中の神のメッセージに見張るべき。
5,.神の関心は異邦人の救いであった。:異邦人への救いが明確にされたように、今日も神は、私たちを通して救われる人を招いておられる。世の祝福を主は願っておられる。
主よ、今日語られるあなたの御声を聞かせて下さい! (山本牧師)
2017年5月14日(日)
テーマ「主からの豊かな報い」 聖書箇所:ルツ記2章8-13節
①ルツの信仰「選択と決心」:異邦人であったルツは信仰によって行くべき道を選択した。私たちは、主への愛が、他の何物よりも勝っているだろうか。「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」と言える信仰を頂こう。
②神の摂理:はからずも、とは「思いがけず」「意外にも」という意味。しかし、ここに神の摂理があった。神は、時も、場所も、人も備えて下さり、主に従う者に対し祝福を用意しておられる。
③落穂拾いの姿勢から学ぶこと
・それは「一つ一つ集める」こと:少ない数でも、積み重ねが大事。一つ一つ真理を得て、後に束となった福音の素晴らしさをさらに味わうことができる。
・それは「身を低くする」こと:穂をとる時は身をかがめる。みことばを得る時、高慢な思いではみことばを得ることは難しい。へりくだったときに、落穂(糧)を得ることができる。
・それは「注意深い」ということ:信仰・霊的な糧に対し注意深さが必要。信仰、霊的な盲目さがあるならば、聖霊の助けによって目薬を頂き、熱心に拾おうではないか。
・それは「大切に扱う」ということ:私たちは、日々の霊的な糧を得たならば、その糧を大切にすべきである。
・それは「与えられた時間、しっかり拾った」ということ:ルツは、朝から夕方まで拾い続けた。信仰生活も生涯をかけて主から恵みをいただく。信仰生活を最後まで歩むならば、それは祝福の束となり、恵みの束となる。
=ルツが得た豊かな報い=
彼女は後に、救い主イエス・キリストの系図の中に含まれる祝福された立場となった。私たちも、罪と死のなわめの中にあったが、イエス・キリストを信じたことにより、神の国を相続する約束の民(霊的なイスラエル)となった。落穂を拾いつつ、与えられた神の民という立場に感謝しよう。 (山本牧師)
2017年5月7日(日)
テーマ「主に仕える」 聖書箇所:ヨシュア24篇14-15節
ヨシュアは「あなたがたの中にある、異なる神々を取り除き、主に仕えなさい。」と勧め「私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:14-15)と宣言した。
■主の傍らにいること:「仕える」とは、辞書によれば「目上の人のそばに居て、その人に奉仕する。」こと。「主に仕えます。」と言いつつ、その方の近くに居ようとせず、自分勝手に生きるならば、それは神にではなく自分自身に仕えることだ。主のそばに居ることは、日々主を体験し、生ける神、本物の神を知れる希望がある。主の傍らにいることが主に仕える第一歩。
■「選ぶ」という前提:ヨシュアは、イスラエルの民に対し何を選ぶのかと迫った。必要なことは「何を選ぶか」ということ。選択する権利は私たちに委ねられている。彼は主に仕えることを選んだ。その結果は間違いがないことを確信していた。主の御心を選べるように祈ろう。
■聖霊の助け:イスラエルの民は「私たちは主に仕えます」と断言したが、後に、偶像礼拝へとはしっていった。人間は「弱い」もので「忘れやすい」。言うなれば「うなじの怖い民」だ。私たちの弱さを知り、助けて下さるお方は「聖霊」である。呼び名は「パラクレートス」。「パラ」は「傍らに」、「クレートス」は「呼ばれたもの」。主に仕えることは日々聖霊の助けによる。その先に「祝福」がある。主に仕える生き方こそ、人生の醍醐味であろう。
■永遠に:「主に仕える」という「主」には「エート」という冠詞がついている。「エート」とは「アーレフ」「ターヴ」というヘブル語の始まりと終わりの文字で成り立っており、主は、初めであり終わりである方だ。主に仕えるとは、その名のごとく永遠なる神に仕えるということ。そして、私たち自身も永遠に仕えるということ。
■信仰継承の視点:ヨシュアの見つめていた先は、自分自身の信仰だけでなく、家族の救い、信仰が受け継がれることにも向いていた。私たち自身の救いの先に隣人の救い、家族の救いという大きな大きな祝福を主は用意されている。ヨシュアのごとくに信仰を持って告白しようではないか。共に勝ち得るまで祈り続けようではないか。(山本牧師)
2017年4月30日(日)
テーマ「かわいた土の上を渡った」 聖書箇所:ヨシュア記4章20-24節
ヨシュア記は約3400年前の出来事。「ヨシュア」の意味は「主は救い」。ヨシュアの使命は、モーセの後を引き継ぎ、主がイスラエルの民を導き出し、約束の地カナンに至るまでの旅路を完結させること。主はヨシュアに対し「強くあれ。雄々しくあれ。」と励まされた。
①みことばに導かれる歩み
「主の契約の箱」を担いだ祭司たちの足が川に浸ったとき水はせき止められ、渇いた土の道があらわれた。「主の契約の箱」、すなわち神のみことばが先立った。私たちが先立つのではなく、神のみことばに導かれて歩むとき、奇跡の道は備えられる。今のわたしたちの目には隠されていることが多い。大きな業に見えなくとも、日々祈り、みことばに信頼し従っていく人生も、ヨルダン川を渡る奇跡の歩みである。
②かわいた主の道を歩む
川の底は渇き、皆はぬかるむことなく渡り終えた。ぬかるむなら自分の力が必要で疲れる。主が約束される道は、困難に思えても、御手に支えられたしっかりとした「渇いた道」。子どもや大人、病人、けが人、全ての人にとって安全な道。
③救い・恵みの御業をおぼえる
十二部族から十二人選び出し、ヨルダン川の真ん中の十二の石を取って据えた。「ヨルダン川を渡った」ということだけではなく、その御業を覚えるため、また、子どもたちが知るようになるために。石は、ヨルダン川を渡るときに契約の箱があり続けた所、祭司たちが信頼し、立ち続けた所にあった。私たちの人生の証の石も、みことばに信頼しなければ立てられない。主の救い、恵みの御業に対し日々覚えて感謝するべきである。また世代を超えて語られる恵みの証である。 (山本牧師)
2017年4月23日(日)
テーマ「幸いなことよ。主に身を避ける者は。」 聖書箇所:詩篇34篇1-8節
この34篇は「感謝の歌」と言われ「芸術性に富んだ作品」とも言われている。前半は神をたたえる賛美、後半は信仰の知恵のことばが書かれている。かつての英国の牧師チャールズ・スポルジョンは前半を「讃美歌」、後半を「説教」と呼んだ。全体で「礼拝」。
背景(サムエル記第一21:10-15)は、ダビデがガテの王アキシュの前で、気が狂ったような振る舞いをした時のこと。そこには「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と言われたダビデの勇姿はなく、異邦の地で狂気を装い、よだれを流すほどの苦しみの中にいるダビデの姿があった。ダビデは問題や人を見て信仰が揺らぎ、私たちと同じく弱さを持っていた。しかし主に助けだされ恵み深さを体験したダビデは、主への感謝をこの詩に表した。
1.あらゆる時に主をほめたたえる:「あらゆる時に」ということは、容易なことではない。賛美は感情ではなく決心を伴う。賛美は沈んだ心を神の視点へと引き上げる。それは困難の中に、神様を招き入れること。その時に神の全能の力が働かれる。
2.主を求める(34:4):「主に求めること」と、「主を求めること」の違い。「主に求める」とは、「自分」が主体。ダビデは主体を「主」にし、主御自身を求めた。歩みの「中心」に「主」をお迎えした。今の状況の「救い」よりも、その状況の中で「救い主」を求めることが神に喜ばれることではないか。
3.イエスキリストの十字架を仰ぐ:十字架に身を避ける時、罪に定められない(34:22)。十字架には、救い、癒し、慰め、平安、喜び、力、すべての祝福と恵みが満ちている。私たちクリスチャンも残念ながら罪を犯すことはあり、弱さを覚え、涙する。しかし、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方がおられる。それは、義なるイエス・キリスト。十字架を仰ぎ従っていくとき、絶大な神の愛に私たちが取り囲まれていることを知る。(山本牧師)
2017年4月2日(日)
「神の群れを、牧しなさい」(Ⅰペテロの手紙5:1~4) |
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キリスト教会にネロ皇帝による激しい迫害が近づいていた。信者には試練と苦難 |
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が待ち受けていた中で、指導者である長老たちにペテロは勧めの言葉を述べた。 |
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①羊の群れを牧する資格。 ペテロは主イエスを三度も否む失敗を犯した。しかし、 |
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主は彼を立ち直らせ、彼の愛を確認し、「わたしの羊を牧しなさい」と大切な使命を |
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託された。主の召しと選びは変わることがなく、人間の思い考えをはるかに超えたも |
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のである。使徒パウロも羊の群れを牧する任命者は、聖霊ご自身であると述べてい |
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る。(使徒20:28) つまりその資格は、主がお立てになった者である。 |
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②牧師に求められる品性。(Ⅰテモテ3:4・5) 家庭を治めるすべを身につけている |
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人。自分の必要以上に、妻や子供たちの必要を優先し、自分を犠牲にし、仕えるこ |
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とのできる人である。羊の群れを愛し、労苦を惜しまない心を持つには、絶えず聖霊 |
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の油注ぎを必要とする。 |
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③牧師のあるべき在り方。 ⅰ、羊の成長に必要なことをし飼い育てる。良い羊飼い |
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は、良い牧草のある所に絶えず導く。みことばの牧草、聖霊の露が伴うように祈る。 |
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ⅱ、自ら進んでそれをなし、喜びをもって仕える。 ⅲ、群れの模範となることを目指 |
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す。 (川瀬 清文牧師) |
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2017年3月26日(日)
「あなたは忘れられていない」(イザヤ49:15・16) |
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この箇所はバビロン捕囚による苦しみを経験した神の民が、捕囚から解放される事 |
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が描かれている。「愛による解放」ともいえる。民は主から約束のことばをいただいて |
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いたが、それよりも「主は私たちを見捨てた、忘れた」と、自分の惨めさを嘆いていた。 |
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○しかし、主はあわれみ深く、たとえ母親が乳飲み子を忘れることがあっても忘れない |
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と仰せられる。「あわれむ」とは、「我を忘れてしまう」ということ。主が言われる「わたし」 |
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ということばも強調されたものであり、強く私たちへ迫ることばである。 |
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○「手のひらにあなたを刻んだ」と仰せられる主。そして「それを見よ!」と言われる。 |
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・偉大な神の御手を見る・・・生活の中、聖書、祈り、賛美の中などであらわされる。 |
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・十字架のイエス・キリスト、その御手を見る・・・イエスの手の傷跡を見る。刻む行為 |
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は、痛みを伴う。血が流される。傷が残る。十字架上のイエス。そこには救いがある。 |
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・刻まれた自分自身を見る・・・私たちはどんな状況にあっても既に刻まれた存在。罪 |
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深さ、弱さ、嘆きを持っているが、私たちに属するものもすべて神の御手の中にあって |
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刻まれている。神の愛は、私たちの気分や状況によって左右されない。今日も救いの |
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御手、助け主の御手は私たちと共にある。平安をもって主に信頼しようではないか。 |
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(山本 義武師) |
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2017年3月19日(日)
「ヨセフを祝福するヤコブ」(創世記48:11~22) |
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族長ヤコブにとって、ヨセフと共に過ごすことのできた17年間は、どんなに幸せだ |
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ったことだろう。主が彼と共におられ、父を敬愛するヨセフによる、至れり尽くせりの |
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配慮の中に、余生を静かに主と共に過ごしたのである。 |
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①理想的な親子関係。 ⅰ、命令ではなく信頼して。ヤコブは死ぬべき日が近づいた |
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とき、自分が葬られる墓についてヨセフに指示した。 ⅱ、ヨセフの愛と従順。 |
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ⅲ、感謝を表すヤコブ。 ヤコブは最大限の感謝をヨセフに表したのである。神に取 |
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扱いをいただき、愛情も清められた者同士の美しい親子関係である。 |
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②ヨセフを祝福するヤコブ。 病気見舞いに来たヨセフに対して、彼は衣装を正し力 |
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をふりしぼって床に座り、威厳に満ちた態度で接する。そして、エフライムとマナセ |
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を祝福したのである。神の御前を歩み、羊飼いである神の守り養いが与えられるよう |
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に。全ての禍から贖われて豊かに増えるように。主の祝福の約束が成就するように。 |
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③ヤコブの最後。ヤコブは12人の息子たちを祝福したが、的確な預言的な意味を含 |
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んでいた。身体的には衰えても、霊的な衰えは少しもない。神の選びと召しとを全う |
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した見事な最後であった。 |
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(川瀬 清文牧師) |
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2017年3月12日(日)
「泣き悲しむ中にも主の計画が」(創世記37:23~36) |
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ヤコブの生涯は、神の取り扱いを受ける連続であった。以前は、伯父一家によっ |
||||
て苦しめられたヤコブは、今や我子によって苦しめられるのであった。 |
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|||
①ラケルの死。 35章には最愛の妻ラケルが、第二子ベニヤミンを出産したとき、死ん |
||||
で葬られたことが記されている。愛する妻との死別にも耐えて生きて行かなければ |
||||
ならないヤコブ。その深い悲しみは生涯癒されることがなかったようだ。神は祝福の |
||||
継承者である彼には、愛する者を失う痛みさえ共有されたと言えないだろうか。 |
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|||
②ヨセフとの長い別れ。 ヤコブの偏愛が招いた悲劇であった。ヨセフは兄たちによっ |
||||
てエジプトに売られ、年老いたヤコブは息子たちに欺かれるのである。悲嘆の涙に |
||||
暮れるヤコブ。でも神はヨセフをちゃんと守っておられた。 |
|
|||
③神の計画があった。(詩篇105:16~19) 主はヤコブ家族を飢饉から守り、エジプ |
||||
トにおいて一大民族に増やすご計画があったのである。ヨセフはヤコブ家族が、エ |
||||
ジプトへ移住するための橋となる役割を担う。ヨセフの人格形成とヤコブの愛情が |
||||
清められる必要があった。主は私たちにも良い計画を持っておられ、また成し遂げ |
||||
て下さることを信じよう。(ヨブ42:2) |
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(川瀬 清文牧師) |
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2017年3月5日(日)
「泣き悲しむ中にも主の計画が」(創世記37:23~36) |
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ヤコブの生涯は、神の取り扱いを受ける連続であった。以前は、伯父一家によっ |
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て苦しめられたヤコブは、今や我子によって苦しめられるのであった。 |
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①ラケルの死。 35章には最愛の妻ラケルが、第二子ベニヤミンを出産したとき、死ん |
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で葬られたことが記されている。愛する妻との死別にも耐えて生きて行かなければ |
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ならないヤコブ。その深い悲しみは生涯癒されることがなかったようだ。神は祝福の |
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継承者である彼には、愛する者を失う痛みさえ共有されたと言えないだろうか。 |
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②ヨセフとの長い別れ。 ヤコブの偏愛が招いた悲劇であった。ヨセフは兄たちによっ |
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てエジプトに売られ、年老いたヤコブは息子たちに欺かれるのである。悲嘆の涙に |
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暮れるヤコブ。でも神はヨセフをちゃんと守っておられた。 |
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③神の計画があった。(詩篇105:16~19) 主はヤコブ家族を飢饉から守り、エジプ |
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トにおいて一大民族に増やすご計画があったのである。ヨセフはヤコブ家族が、エ |
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ジプトへ移住するための橋となる役割を担う。ヨセフの人格形成とヤコブの愛情が |
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清められる必要があった。主は私たちにも良い計画を持っておられ、また成し遂げ |
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て下さることを信じよう。(ヨブ42:2) |
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(川瀬 清文牧師) |
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2017年2月26日(日)
「イエスに従って」(ルカの福音書5:1~11) |
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1.生活の流れの中でのイエスの御業(召命)は、シモンにとって生活の一連の中であ |
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らわされた。時折、私たちは非日常的なことを求めたり期待したりするかもしれない |
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が、私たちの日常生活の中でイエスは語られ、御業をなされる。 |
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2.イエスのことば(聖書のみことば)に従う。 シモンは夜通し働いたが魚はとれなかっ |
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た。だがイエスのことばに従ったことに注目。シモンの姑の癒しなど、イエスへの期 |
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待・信頼があったのであろう。私たちは、神様への期待を持って従っているだろうか。 |
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3.みことばには力がある イエスのことばに従ったとき奇跡がなされた。 魚を満たした |
|||
のはイエスご自身。イエスのことば、ご臨在によって力はあらわされる。 |
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4.イエスを知ることは、自分の弱さ、罪深さを知ること ペテロはイエスのことを「先生」 |
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と呼んでいたが、大漁の奇跡がなされた時に「主よ」と呼ぶ。この方がどういうお方 |
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か知るとき、自分の弱さ罪深さを知った。私たちにイエスが近づかれるとき、「イエス |
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からの遠さ、隔たりを知るが、イエスは愛をもって近づき手を差しのべてくださる。 |
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5.イエスのことばを体験する時、人生が変わる。 生まれつきの性格・性質は変わらな |
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いが、日々聖書に親しみ、みことばが内に生きて働くときに人生が変えられていく。 |
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(山本 義武師) |
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2017年2月19日(日)
「苦難の日に答えて下さる神」(創世記35:1~15) |
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神の子供とされた私たちには、常に父なる神との間に、素晴らしいホットライン(緊 |
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急連絡に用いる直通通信線)を持ってる。その番号は「苦難の日にはわたしを呼び |
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求めよ。わたしはあなたを助け出そう。・・」(詩篇50:15) 族長ヤコブやダビデの |
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全生涯を通しての揺るぎない確信でもあった。私たちにも同じ信仰のDNAをいただ |
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いていることを覚えたい。 |
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①ヤコブに語りかけられる神。 ヤコブは娘の軽率さと息子たちの残虐さに、心を痛 |
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めるとともに、悩み心配を抱え込むことになる。そのような沈みこむ彼に、主は憐れ |
|||||
みをもって語りかけられるのである。主は彼を義の道に導かれたのである。 |
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②問題解決は、祈りの祭壇に。 彼は家族を聖別し、ベテルへの新しい出発をする |
|||||
ことができた。また神の介入によってヤコブたち家族は守られたのである。 |
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私たちも苦難の日に答えて下さる神に、祭壇を築いて祈ろう。 |
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③ベテルで祝福を受けるヤコブ。 神はベテルで彼を祝福するために、待っておられ |
|||||
るのだ。苦難の日の向こうには、祝福が待っていることを、私たちが信じられるなら |
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幸いだ。神の約束に生きる者としていただこう。 |
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(川瀬 清文牧師) |
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2017年2月12日(日)
「ヤボクの渡しでの体験」(創世記32:22~32) |
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「負けるが勝ち」ということわざがあるが、私たちに大切な霊的真理を教えている。 |
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自分が握り締めているものがあると、葛藤が続き平安と勝利がやって来ない。 |
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①ヤコブの非常な恐れ。 ヤコブは、兄エサウが四百人を引き連れて、やって来るこ |
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とを聞き非常に恐れた。兄エサウが復讐のために来るのではないかと。恐れはキリ |
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スト者であってもコントロールが難しいものだ。恐れから解放される道は、主イエスの |
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力強いことばに耳を傾けることにある。 |
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②ヤコブの祈りと策略。 ヤコブの中には、主への信頼と、人への恐れとが共存しい |
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た。彼は自分の知恵、力、持ち物に頼る思いを捨て切れなかったのである。先頭に |
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贈り物を立て、兄エサウをなだめようと策略を用いる。主はそのような彼を聖め、主に |
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のみ信頼する者へとされる。 |
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③ヤコブの転機。 ヤコブは主の使いと、一晩中取っ組み合いをする。彼はもものつ |
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がい(股関節)を打たれ、自分の力の限界を認め主に降伏し、霊的勝利を得た。 |
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霊的太陽が上ったヤコブから、イスラエルへ。彼は兄エサウと再会する備えが出来 |
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た。私たちも、主の前に明け渡すことによって、勝利を得させていただこう。 |
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(川瀬 清文牧師) |
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2017年2月5日(日)
「ベテルの神」(創世記31:1~13) |
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主に愛され選ばれることは、この上ない栄誉に与ることであって、喜ぶべきことで |
||||
ある。しかし、もう一方においては主のお取り扱いを受けなければならず、それを避 |
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て通ることはできない。それはヤコブにおいても同様であった。 |
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①ともにおられる神。 父イサクを欺いたヤコブは、伯父ラバンに幾度も欺かれること |
||||
になる。ヤコブが14年間、無報酬でラバンに力を尽くして仕えたことは立派である。 |
||||
祝福の継承者としての良い証しであった。主はヤコブに守ると約束されたように、悪 |
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賢く強欲なラバンの下にあっても、彼が害を被ることは決して許されなかったのだ。 |
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②ご覧になる神。 ヤコブは約束されたベテルの神は、彼の悩み苦労をご覧になられ |
||||
たように、愛する聖徒たちの個人的悩みを深い理解と関心をもって見ておられる方 |
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だ。主は彼を憐れまれ、ヤコブの家畜を奇跡をもって増やされたのである。この方の |
||||
御前で私たちも誠実に生きよう。 |
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③約束を果たされる神。 ベテルの神は、約束されたことを真実をもって果たされる方 |
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である。誓願を立てたヤコブ自身すら忘れていても、主は決して忘れることがない。 |
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主が許された訓練を、信仰をもって受けとめて行くとき、主の聖徒にふさわしくされる |
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ことを覚えよう。 (川瀬 清文牧師) |
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2017年1月29日(日)
「とりなしてくださるお方」(ローマ人への手紙8:26・27) |
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御霊はイエス・キリストを信じる人の中におられ、とりなしてくださるお方。御霊は言 |
|||
いようもない深いうめきをもって、今日もとりなしてくださる。 |
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1.「弱さを知ることは、主の助けを知る時である」 私たちは肉体的、内面的な弱さを |
|||
覚え、苦しみを持つとき、どのようにして祈ってよいか分からない時などである。 |
|||
①神が「祈りなさい」と言われる祈り、 ②日常的な必要に関して声に出して主に祈 |
|||
る祈り、 ③声に出すこともできないほど辛く心が痛むようなときの祈り。そのような祈 |
|||
りの時、御霊はともにうめき、とりなし、助けてくださる。 |
|
||
2.御霊は遠くからではなく信じる者の只中におられ助けてくださる。 「助ける」とは |
|||
「一緒に」「身代わりになって」「そのことを背負う」という意味。 |
|||
3.神様は私たちの心の窮(きわ)みを知る方である。 「窮み」とは、心の隅々まで突 |
|||
き詰めるほど、普段気付かないような領域にまで。「とりなす」とは「私のために、私の |
|||
益になるため父なる神に代弁する。」ということ。 |
|
||
4.とりなしは、神の愛の業。 御霊が私たちと同じ立場まで来てくださり、ともにうめき助 |
|||
けてくださるのは、神が私たちを愛しておられるが故。御霊の助けにより、今日も生 |
|||
かされていることに感謝、平安。 (山本 義武師) |
2017年1月22日(日)
「ヤコブへの主の約束」(創世記28:10~22) |
|||||
この箇所は、ヤコブが伯父ラバンのもとへ逃走するときの出来事である。70歳後半 |
|||||
になり永年住み慣れた土地と両親から離れることは、どんなに辛かったことだろう。 |
|||||
①ヤコブにおける主との出会い。 彼は両親から、アブラハムの神、主について色々 |
|||||
聞かされてきたことは間違いない。ところが彼自身としては、未だ個人的な主との出 |
|||||
会いはなかったのである。今までは押しのける者として、自分の知恵と力を頼りに生 |
|||||
きていたのだが、兄エサウの復讐への恐れ、将来への不安など、旅の途上で孤独 |
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を感じたに違いない。しかし、そのようなヤコブに対して、主の方から近づいてくださ |
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ったのである。ヤコブは主の選びによって、愛されていたからだ。神がヤコブを一方 |
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的に愛し選ばれた。そこに理由がある。ふさわしくないものさえ愛して下さる神の愛 |
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に信頼しよう。 |
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②ヤコブへの主の約束。 七重の祝福と言われている。神の臨在と保護の約束であ |
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る。あなたを捨てず祝福しますと。羊飼いであった彼はこの時、主が彼の羊飼いとな |
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られたことを信じたのである。彼のこれからの過酷な生活を支えたのは、この主の約 |
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束のことばであった。私たちも同じような祝福にあずかっていることを喜ぼう。 |
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( 川瀬 清文牧師 ) |
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2017年1月15日(日)
「ヤコブ祝福したイサク」(創世記28:1~5) |
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私たちは、神が人間の思いや計画行動に直接介入され、ご自身の計画が成され |
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ていくようにされた事例を、聖書から数多く読むことができる。 |
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①家督権を兄エサウに相続させようとしたイサク。 イサクは年老いて、エサウに相続 |
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させれるため祝福しょうとした。イサクはすでに「兄が弟に仕える」ことが主の計画で |
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あると知りながら、それを認めることができなかった。彼も年老いたとき、主の御心や |
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神への信仰よりも、自分の情や好みを優先させる傾向にあったようだ。 |
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②神の介入。 それを聞いたリベカは、一計を案じヤコブに対して、兄エサウのふりを |
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して祝福を受けてしまうよう命じた。イサクはまんまと騙されたことを知り激しく身震い |
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した。彼は主の約束が、人間の思惑に拘わらず成就したことに気づき、畏怖の念を |
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感じた。エサウは霊的祝福である長子の権利を軽んじていた。私たちも恵みを受け |
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ていてもそれを軽んじるなら、それを失ってしまうことを覚えよう。(ヘブル12:16) |
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③ヤコブを祝福するイサク。 イサクは神の約束を無視してきた罪を悔い改めたことだ |
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ろう。心を変えられ御心を行うことを喜びとされたイサクは、心からヤコブを祝福して |
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送り出した。私たちも自分を主に明け渡し主の御心が成るように祈ろう。 |
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( 川瀬 清文牧師 ) |
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2017年1月8日(日)
「だから、目をさましていなさい。」(マタイの福音書24:37~51) |
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あなたは、今の時代をキリスト者として、どのように捉えて生きているだろうか。世界 |
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情勢は聖書の預言通りになって来ている。主イエスはご自分が再び来られる時を、 |
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ノアの日に起こったことと同じだと仰せられた。 |
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①再臨に無頓着になってはいけない。 ノアの時代の特徴の一つは、人々が自分の |
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欲望を満たすことに心を奪われており、特に性的堕落が甚だしかったので、神は洪 |
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水によって滅ぼすことをお許しになった。二つ目は、人々がノアの警告を無視したこ |
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とだ。ノアは箱舟建造の間、やがて世界に下される神の審判を語り、悔い改めと箱 |
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舟に入ることを勧めた。しかし、人々はノアを罵り嘲って警告を無視した。やがて箱 |
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舟は完成し主によって戸は閉ざされた。教会時代も残り少なくなっている。 |
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②携挙される人、残される人。 その日を待ち望み続けた信者は、一瞬のうちに携挙 |
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され、空中で主とお出会いするこの上ない輝かしい喜びの時だ。しかし、反対に準 |
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備を怠って取り残された人たちは悲嘆にくれる。彼らはその時、自分が失った霊的 |
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損失を理解し涙するのである。キリストの再臨が近づきつつある今、目を覚まして祈 |
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り主のわざに励もう。(ルカ21:36) |
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( 川瀬 清文牧師 ) |
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2017年1月1日(日)
「主が、絶えず目を留め」(申命記11:8~15) |
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新しい年を進んで行く旅路の中で、過去には経験したことのない事柄が生じること |
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もある。人は、そこで必ず主を通して何かを学ばされるからだ。新しい主の恵みとす |
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ばらさしを体験し,「新しい歌を主に向かって歌え」(詩篇33:3)たなら、これにまさる |
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喜びはない。 |
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①主が求めておられること。(申命記10:12・13) 申命記を読むなら主が民を愛し、 |
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どんなにか「しあわせになる」(口語訳「幸いを得る」)ことを願っておられるかを知る |
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ことができる。また、私たちが幸いを得て、繁栄するためのガイドブックでもある。鍵 |
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の言葉は、よく聞き従ってである。主の力は私たちが、促しに従う時に与えられる。 |
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②その地は主が顧み、目を留めておられる。(口語訳) 山と谷の地であり、天の雨で |
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潤っている。主は私たちの生活の場をこれほどに顧みておられるのであるから、決し |
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てなおざりにすることはできない。しかし、信仰の歩みは、平穏無事な平坦な生活を |
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保証するものではない。目の前に立ちはだかる困難の山があり、失意の谷に留まら |
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なければならないこともある。しかし、そこは天の雨で潤される所であり、主から豊か |
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な供給を受けることも約束している。この方に大胆に信頼して進もう。 |
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(川瀬 清文牧師 ) |
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